「嘘が最も多いのは選挙の前と戦争の最中と狩りのあとである」(ビスマルク)

プロイセンの南方拡大と
先に手を出したフランス・ナポレオン3世

そして

プロイセン/ドイツ帝国の首相/宰相
「鉄血宰相」ビスマルク(1815-1898)

まずはビスマルクの言葉のいくつかを紹介しよう

「政治においては何も信じてはならない。公式に否定されないうちは」

「法律とかけてソーセージと解く。その心は、
どっちも、作る過程を知らない方がいい」

「大国間の条約が消えてしまうのは
生存競争の邪魔になる時である」

「紳士ひとりが相手なら私はいつも1人半の紳士となり、
詐欺師ひとりが相手なら私は1人半の詐欺師たろうとする」

「嘘が最も多いのは選挙の前と戦争の最中と狩りのあとである」

「世界をだましたいなら、真実を語れ」

「本当のことを言うほど敵を惑わすことはない」

「自分の間違いから教訓を学ぶのは愚者のみである。
賢者は他人の間違いから学ぶ」

「愚者は経験から学ぶと言う。私は、経験は人にまかせる」

「神が特別の摂理を用意している相手は、
馬鹿と、呑んだくれと、アメリカ合衆国である」

「国境に迫る征服軍は、言葉で止めることはできない」

「戦争を予防するために戦うというのは
死ぬのが怖いと言って自殺するようなものである」

「政治の秘訣は何か、それはロシアとの条約をうまくまとめることである」

「現下の大問題は演説や多数決で解決するのではない。
それを解決するのは、鉄と血によってである」

「とがった言葉よりとがった弾丸を」

「いつの日か、欧州の大戦争が
バルカン半島の何か実にくだらないことから
始まるであろう」

「戦場でまさに息を引き取ろうとする兵士の
うつろな眼差しを見たことのある者は、
開戦はよほど慎重に決断するだろう」

「ファウストは自分の胸に二つの魂を抱えていると嘆いていたが、
私は二つどころではない。群衆がいて、喧嘩ばかりしている。
共和国のようなものだ」

「戦うにたるだけの目的を言ってくれ。そうしたらあなたに従おう」

「恐怖に訴えようとしてもドイツ人の心には決して響かない」

「我々ドイツ人は神を畏れる。しかし、この世界においてそれ以外は何も恐れない」

「大事なのは歴史を作ることだ。歴史を書くことではない」

「我々が歴史から学ぶのは、誰も歴史から学ばないということである」

「真に偉大なる人には3つの特徴がある。
計画は気前よく、
実行においては人間性を大事にし、
成功はほどほどにとどめる」

「政治は論理に基づいた科学ではない。
政治は、絶えず変わりゆく状況の中、
その時々において選択し続ける
という能力のことである。
いちばん害が少ないのがいちばん有益である。

「政治的判断力とは遠くに響く
歴史の馬のひずめの音を
聞き取る能力のことである」

「戦争の終盤になって言うことが
序盤に言っていたことほど
つじつまが合わなくなる指導者に
災いあれ。

「私にはもはや一つの野心しか残っていない。
墓碑銘に良いことが書いてあってほしいということ」


人気ブログランキング お手数ですがどうかクリックを!

にほんブログ村  人気投票、どうかこれもクリックして下さい!

ありがとうございます! m(_ _)m

そんなビスマルクの策略に
まんまと引っかかって?
ロシアのプーチンじゃないが
先に手を出したのがフランス
ナポレオン3世はみんなに嫌われた

中世から一千年ものあいだ
バラバラに分裂していたドイツが
フランス憎しのナショナリズムで
一気にまとまる

ビスマルクによる
ある「改ざん」が焚きつけた
嫌仏と嫌独のぶつかりあい
普仏戦争(1870-71)である

フランスはドイツの「南方拡大」が怖かった

↓ ↓ ↓ ↓ ↓

中世以来バラバラに分裂していたドイツ
1860年時点でも30いくつかの君主国と4自由都市
それをプロイセンを中心として
戦争(鉄と血)と
レアルポリティークで統一した
「鉄血宰相」ビスマルク

議会の反対を押し切って軍隊を増強し
3つの戦争を画策して勝利
対デンマーク 1864
オーストリア(普墺戦争)1866
フランス(普仏戦争)1870-71

普仏戦争で出来上がったドイツ帝国1971年
フランスのアルザス・ロレーヌ地方を併合
(ドイツ語でエルザス、ロートリンゲン
を取り返したという、これまたウクライナの
露語ドネツク、ルガンスク/宇語ドネツィク、ルハンシク
みたいだが)

この時たぎったフランスの嫌独愛国心は
後々第1次世界大戦へとつながる、、

1864年のデンマークとの戦争は
シュレスヴィッヒ公国とホルシュタイン公国
この2国の支配を強化するデンマークから
分離独立をというドイツ語話者ーー
彼らがプロシアに
支援を求めてのことだった

今のウクライナのドネツク、ルガンスクの
ロシア語話者とロシアみたいな、、

ビスマルクのプロイセンはこの戦争で
デンマークからこの2公国を奪ったーー
(2国はオーストリアとプロイセンそれぞれの管理下に)
今風に言えば武力による現状変更

その次はオーストリアと
ドイツ統一の主導権を争い
1866年の普墺戦争
発達した鉄道や電信電話の活用で
プロイセンはあっという間に勝利を収め
「7週間戦争」
1867年に北ドイツ連邦を結成

(プロイセンとオーストリア
その100年前は「7年戦争」だった
(1756-63)
シレジアの領有をめぐる対立だが
プロイセンを支援したのがイギリス
オーストリアについたのがフランスとロシア
英仏はアメリカやインドでも戦った)

普墺戦争(1866)の次はビスマルク
「改ざん」の裏技で
フランスとの戦争(普仏戦争)を仕組む
(エムス事件)

1868年スペインの9月革命で王位が空位となる
(ブルボン系の王様はフランスに亡命)
ビスマルクの推すプロイセン王家筋の
ホーエンツォレルン系レオポルト王子
が王位継承(ドイツの「南方拡大」?)
決まりかけたが
フランスのナポレオン3世が待ったをかける
ドイツに挟まれる脅威を感じたか
プロイセン王ヴィルヘルム1世に
レオポルトの即位を撤回させた

さらに1870年7月13日
フランスは駐プロイセン大使を
温泉地エムスで静養中のヴィルヘルムに遣わし
スペイン王位継承問題に2度と介入しないよう
約束を取り付けようとした
(ドイツが「南方拡大」しない確約、、)

そのことをヴィルヘルムが
ベルリンのビスマルクに報告したのが
「エムス電報」である

この電報にビスマルクは印象操作-–
安倍晋三流に言うと
< 改ざんじゃないけど改めた >

<2度と口出しするなと要求した>
みたいなフランスが実に横柄な
不当な要求を突きつけたような電報に
仕立て上げたのだ
これでドイツ人は
フランスめ!なんと横柄な!
となる

そしてプロイセン王のほうも
それをにべもなく断り
おまえとはもう話すことはない
と吐き捨てたような
高圧的な印象に「編集」
しかもその翻訳が新聞に載ったのが
7月14日ーーフランスの革命記念日である
フランス人が怒ったの怒らなかったのって

ただでさえフランスとプロイセン
(悲しや今の日本と韓国のように?)
互いに嫌仏嫌普の間柄
ドイツでもフランスに対する怒りは
北ドイツ連邦のみならずバイエルンなど
普墺戦争でオーストリアに付いていたドイツ南部の国々
にまで燃え広がる
こうしてビスマルクの思惑通り
全ドイツがフランスへの敵愾心に震えて
一つになったのだった

フランスでも
戦争だ!
敵基地攻撃!反撃力!
とばかりに戦争を求める大衆の叫び

ナポレオン3世は
7月19日にプロイセンに宣戦布告した

これはビスマルクのプロイセンの思う壺
南部の国々とは前から通じていて
フランスとの戦争の準備はできていたのだ

いつもきっかけを作るのは他国
それを巧みに利用して挑発し
戦争に誘い出す?
ビスマルク、、

結局、ナポレオン3世(左)は捕虜に


人気ブログランキング お手数ですがどうかクリックを!

にほんブログ村  人気投票、どうかこれもクリックして下さい!

ありがとうございます! m(_ _)m

プロイセンのビスマルク家は
祖先に軍人が多く、
曽祖父はフリードリッヒ大王の7年戦争で戦死
祖父も軍人、
父親はナポレオンのフランス軍と戦い負傷、
家もフランス兵に荒らされ
庭木にはフランス軍の銃弾や銃剣の跡
ビスマルクは子供の頃から
フランスへの敵愾心が植え付けられていたかもしれない

「私の家には過去300年
フランス人と戦わない者はひとりとしていなかった」

ドイツ首相としての在職22年はドイツ史上最長

時代の最大の政治的事実は何かと聞かれ
北米が英語を話すことと答えた。

英語は今や日本においても
日本語を駆逐する勢いであるが、、

実はビスマルク、アメリカの
リンカーンやグラント将軍の大ファン。
アメリカとの同盟の可能性をさぐったこともあった。

血も涙もない男?
実は「鉄血宰相」には涙もあった。
親元を生まれて初めて離れた学生時代
農民が畑を耕すのを見て
涙し咽び泣いた

しかし時代変わってオットーの玄孫
カール・エドワルト・フォン・ビスマルクは
首相時代のアンゲラ・メルケルから
「ドイツでもっとも怠惰な国会議員」
として 辞任を求められたことがある


人気ブログランキング お手数ですがどうかクリックを!

にほんブログ村  人気投票、どうかこれもクリックして下さい!

それにしても至言である

ゆめゆめこういうことにならぬように

歴史的な対立を乗り越えて
ヨーロッパの新秩序を主導してきた
ドイツとフランス

アデナウアー/ドゴール.jpg
アデナウアーとド・ゴール 1962

『差し出された和解の手 2 』
https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2018-05-01

ミッテランとコール 1984.jpg
ミッテランとコール 1984

『差し出された和解の手』 
https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2015-07-31-1


仏独、第1次大戦終結100年/因縁の地で首脳が和解を象徴
2018/11/11 https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/photo.aspx?id=20181111000059&no=1


AFP 2021年11月4日 https://www.afpbb.com/articles/-/3374172

盤石に見えたドイツとフランス主導の欧州秩序

そこへロシア・ウクライナ情勢が新たな挑戦を
突きつける

ドイツ首相「二度と戦争せず」 ウクライナ支援に制限も
中日新聞 2022年5月9日 https://www.chunichi.co.jp/article/466830


人気ブログランキング どうかクリックを!

にほんブログ村  クリック!

m(_ _)m 有難うございました

旧ブログの関連記事はこちらのタブで:
https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2022-05-11

タイトルとURLをコピーしました