「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口

オバマの追求をさらに追及

http://www.nytimes.com/2016/05/28/world/asia/text-of-president-obamas-speech-in-hiroshima-japan.html?_r=0 (ニューヨーク・タイムズ:オバマ演説全文 英語)

 

オバマは何かとんでもない勘違いをしている。
というか計算ずくだな。
狡猾で、実にとぼけた、ふざけた演説だ。

騙しの演説。

 

この大統領が自分の国の責任をどうとらえているのか
そこんとこを聞きたいと思っていたら、一般論ですませる。
自己陶酔。そしてほとんど説教だ。
被爆者が、日本人が、広島で、なんでこんな話をアメリカの大統領から聞かされなければならないのか。

さる中東のお方ならずとも

 

「カフカ!」

(わけ分からん!)

 

と叫びたい気分だった。
 
「原爆は誰が落としたのか」

 騙しの手口

 

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

広島・長崎に原爆を落とした国アメリカの大統領でありながら
まるで部外者であるかのように話すのだ。終始一般論。

冒頭からこうだ。

「71年前の雲ひとつなく晴れ渡った朝、空から死が降って来て、世界が一変した」

(death fell from the sky.)

空から降って来た!?
じょーだんじゃない。誰かが落としたんじゃ。

落とすように命令したやつがいたんじゃ。落とす事を決めた国があったんじゃ。

オバマの演説がいかに狡猾で不誠実なものであったか。

主語を隠すというのがその騙しの手口のひとつだ。

オバマ演説の主語不在は異様だった(*1)。

「アメリカ」を隠すというオバマ演説の戦略が透けて見える。
「アメリカ」への言及を徹底して避けるのである。
直接的な言及は一度きり。しかも「our own nation」(*2)という言い方。
アメリカという言葉は一度も出て来ない。
American(s)のみ二度出て来るがいずれも原爆の犠牲者である(*3)。
「US」も皆無だが the United States 「合衆国」が、日本と同盟を結んだ
というくだりで一度だけ使われる。
パイロットに触れるが「bomber’s pilot」(爆撃機操縦士)と表現されているし、
アメリカ国民のことはour own citizens「我ら自身の市民たち」と表現している。
アメリカでとかアメリカ国内でという言い方も避ける。
within our borders「我らが国境内」と一度言うだけ。

徹底的なアメリカ隠しを意図して練り上げられた演説だったと思う。

「原爆は誰が落としたのか」

だからオバマの広島演説、それには言及しない。
受け身形にして言及を避ける。あるいは名詞形にして「原爆投下」などとする。
誰がという問題を巧妙に隠し、一般論にすりかえるのである。
「the moment the bomb fell」 (爆弾が落ちた瞬間)。

 「落とされた」(the bomb was dropped)という他動詞ですらない。

人類、歴史、戦争を語る

主語として盛んに使われるwe「わたしたち」、盛んに出て来る所有形our「私たちの」。
広島を原爆を戦争を、人類の問題として終始一般論で語っている。
考えてみるがいい。原爆を投下したアメリカ。その国の大統領が広島にやって来て日本人を前に道徳や倫理をふりかざし、いちどたりとも
「アメリカ」を、「アメリカによる原爆投下」を、口にしないのだ。
戦争を語り、生命の尊さを説き、私たちが選ぶべき未来を語り、伝えるべき物語を語り、、、と
それは実に摩訶不思議な光景であった。
そして「すばらしい演説でした」という日本人の感想を伝える日本のテレビ。。。
もーわけわかんね。
カフカ!
人類の歴史と科学の発達や道徳や戦争を語ったくだりでは
サブリミナル効果を狙うかのように日本軍とナチスをチラリとのぞかせる。
戦争の非人道的行為はアメリカだけじゃないと言いたげだ。
戦争は昔からあった(言外に「アメリカだけが悪いんじゃない」)という話になるのだが
そこにサブリミナル効果をちりばめる。
「行進させられ」(これでフィリピンで日本軍が捕虜を炎天下歩かせた「バターン死の行進」をふと想起)。
「毒ガスで殺されたのです」(ナチス・ドイツのユダヤ人大量殺戮を想起)。
「この戦争を記録に留める場所が世界に数多くあります」(言外に「広島は特別ではない」と言っている)
「人類の核心的な矛盾」(アメリカの問題ではなく人類の問題にした)。

そして、We「私たち」と、あくまで一般論なのである。

「私たちは」どれだけこの真実に目をつぶるのでしょう(*4)。

「私たちは」いかにたやすく…暴力の正当化を身につけることでしょう。

オバマが広島で道徳を説く不条理

演説は道徳を説いて終わる。

「これこそ私たちの選ぶことの出来る未来だ。それは、広島と長崎が、核戦争の夜明けとしてではなく、我々の道義的目覚めの始まりとして知られる未来である」。

「私たちひとりひとりに減じることのできない価値があるということ、すべての命は尊いということ、私たちは人類という一つの家族の一部なのだという根源的で欠かせない考え方。これこそが、私たち全員の伝えねばならない物語なのです」
って、何もオバマに言われなくても分かってるつもりだし、
無人機で市民を多数殺しているのはあなたではないのかとも思うし、
ほかにも伝えていかなくてはならない物語はたくさんあるように思うのだが。。
原爆の悲惨さとか。。

しかしオバマが資料館で過ごした時間はわずか10分だった。

「私たちはなぜここ広島に来るのか。それは、そう遠くない過去に解き放たれたある恐ろしい力について思いをめぐらすためです」
なんと空しく響くことか。
この言葉の陰でオバマは空前の予算で核兵器の近代化を進めようとしているのだ。

http://noraneko-kambei.blog.so-net.ne.jp/2015-06-02

「私たちはなぜここ広島に来るのか。それは、そう遠くない過去に解き放たれたある恐ろしい力について思いをめぐらすためです」

それに、勝手に決めつけてほしくない。<私たち > 日本人が、なんでオバマからそんなことを言われにゃならんのだ。私たち、というか少なくとも私なぞ、アメリカがどんなにひどいことをしたかを理解し、心に刻み付けるために来るんだ。そして日本の指導者たちが戦争の道を選んだ帰結がどうだったかを知るために。

「私たちが何ものなのか、何ものになりうる可能性を秘めているのかを見定めるために」来るだなんて、それも決めつけてほしくはない。
私は <アメリカが何ものなのか、日本はなんでこんなことになったのか>
それを知りたくて来る。
そしてアメリカを恨み、戦争を恨む。もちろん日本で戦争の道を選んだ人々をも。

たとえ安倍が恨むなと言っても(*5)。

そもそも、戦争を始めたかつての日本を取り戻そう、そんな日本に戻ろうという安倍や、
今なお核兵器にしがみつき、
マーシャル諸島の核被害を一部しか認めず、「核ゼロ裁判」にそっぽを向けるアメリカの大統領から
そんなことを言われる筋合いはない。

http://noraneko-kambei.blog.so-net.ne.jp/2015-02-24

71年前、戦争を終えるためという正当化がもはや成り立たない中、それまでの空襲被害の少なかった都市、周囲を山で囲まれた地形の都市をあえて選び、一般市民に多数の犠牲者の生じることや生存者にも後々まで健康被害が及ぶことを承知の上、戦後世界の影響力のため、核兵器の影響を調べる生体実験のため、あえて原爆を広島と長崎に投下した国の大統領から、そのような説教を受けるいわれはない。

やる気あるのか?そして
共犯関係

「追求」「究極的」「生きてる間は無理かも」

「核兵器の存在を制限し、削減し、究極的に廃絶することを希求」するということをオバマは語った。
「究極的に」という言葉は日本が「唯一の戦時被爆国」として毎年国連総会に提出し、採択させている決議にあるものだ。「究極的核廃絶」すなわち、いつかそのうちやりましょう。つまり、いつになっても廃絶されない。

「究極的に」と言い、段階的アプローチと言い、いつまでに、どうやって、ということには一切触れない。ここに日米の共犯関係がある。お題目を掲げるだけ。努力目標の宣言。

「我々は恐怖の論理を逃れ、核なき世界を追求する勇気をもたねばならない」とオバマ。
「私たちは私の生きている間にこの目標を達することはできないかもしれない、しかし不断の努力で…」

やる気あるのか?ただの時間稼ぎか?

「核なき世界を追求する勇気を持たねば」。勇気だけ持って不断の努力で各なき世界を追求しつづけて究極的には手放すと言いながら、いつまでもそれは達成せず、核兵器の大規模な近代化を進める。そういうこと?オバマさん。

「しかし、1945年8月6日の朝の記憶が色あせることがあってはならない。この記憶があるから私たちは独り善がりに抵抗できるのだ。それは私たちの道義的想像力の源となる。私たちを変えてくれる」

言葉のみ美しく(日本語に訳すとあまり美しくもないが)ひたすら空しい。そもそも、独り善がりでなくなる、というのが独り善がりそのものではないのか。「私たち」と言われても、何しろアメリカは変ってはいないのだし、日本にいたっては安倍政権下どんどん悪い方向に変わって行くだけなのだから。

これで日米はお互いの非人道的な行為をとやかく言わないことになる。法の支配からいよいよ離れたズブズブの関係になって行く。それは例えばすでに沖縄の米兵や米軍関係者の容疑者の身柄をアメリカ側の「特別の配慮」で日本側に引き渡したり、日本からの「思いやり」で米軍駐留費の一部を肩代わりするようなところに現われているが、今後は日本自衛隊がアメリカの戦争に付き合わされる中で発揮されよう。日米の共犯関係が深まるわけだ。

悲しいかな被爆者までがオバマ演説を好意的にとらえている。この国の人々はいったい何度アメリカに騙されれば気が済むのだろうか。思えば「平和のための原子力」を押し付けられたときもそうだった。おー!原子力を平和のために!原発、すばらしい!と。

いずれにせよ安倍政権にとっては思惑通りの展開ではないだろうか。G7やオバマの広島訪問で世論の支持を得た。次は消費税増税延期の表明、株が急伸して、衆参同時選挙、自民圧勝、改憲、とまあこーゆーシナリオでしょう。


(*1):英語は意味を伝える上において動詞が中心的な役割を果たし

誰が何をした、誰に対してした、と物事を動作として表現するのが基本となっている。
日本人の英文は日本語の特質をそのまま受け継いで、受け身形が多い。主語(動作手)は文脈の中に隠れる。
あるいは物事・出来事が名詞として表現されることが多い。英語では、そのように受け身形にしたりして主語が言外に隠れてしまうような文章は

動作主の顔が見えないものとして、英語圏での教育では、通常は避けるように教えられる)。

(*2):「私自身の国の物語は簡単な言葉で始まりました:全ての人は等しく創られている」

「全ての人は等しく創られた」というのなら、なぜアメリカ兵や軍関係者は日本の女性を強姦し、殺害し、ヨーロッパの女性は強姦せず、殺害しないのですか。なぜアメリカの軍用機は日曜も国民の祝日も夜間も学校の始業式の日も日本の上空を飛ぶのですか。ヨーロッパの米軍基地からは飛ばないのに。なぜアメリカの軍用機は日本とヨーロッパで飛ぶ高度が違うのですか。なぜアメリカの兵士や軍関係者は別れた日本人女性にはヨーロッパ人に対するのと子供の養育費の払い方が違うのですか。なぜ、、、)

(*3): 私はここに強く意図を感じる。「アメリカ」と戦争の加害とを結びつけまいとしているのだ。「核兵器を使った国としての道義的責任」と発言したプラハ演説からは大きく後退している) 

(*4): 「私たちは」と一緒にしてしないでほしい。目をつぶるのは「アメリカ」だろう。
この演説で「アメリカ」を出さないのがまさに「目をつぶる」ことなのだ。
しかし、計らずも、この「私たち」に日本も含められてしかたない現実がいま
私たちの目の前で展開している。
アメリカと共にこれから世界の紛争に戦争に出かけて行くようになる日本、
兵器を平気で輸出するようになった安倍日本だからである。
「私たちはどれだけこの真実に目をつぶるのでしょう」。

皮肉なことだが図らずもオバマは真理を告げている。

(*5): 安倍総理大臣(2016.5.14):「伊勢志摩サミット終了後、アメリカのオバマ大統領と被爆地・広島を訪問します。原爆や戦争を恨まず、人のなかに巣くう『争う心』と決別する。そのような歴史的な訪問としなければならない。そう決意しております」
http://noraneko-kambei.blog.so-net.ne.jp/2016-05-15

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