「国防は軍人の占有物にあらず」加藤友三郎100年前の軍縮条約

首席全権の加藤友三郎海軍大臣は海軍大将

調印は1922年2月6日のワシントンだから
日本時間で2月7日か
ちょうど100年前だ

主力艦の米・英・日:10対10対6 を決めたワシントン海軍軍縮条約
海軍の強硬派は日本の7
を主張していたのに6

交渉のさなか本国に伝えられた加藤の言葉が

「国防は軍人の占有物にあらず」

書き留めたのは
随行していた堀悌吉
(当時は機密)

「伝言」はこう続く

「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、
 国力を涵養し、
 一方外交手段により戦争を避くることが、
 目下の時勢において国防の本義なりと信ず」

今ではすっかり忘れ去られたようだ
調印から丁度100年の今日だが
取り上げる新聞もない

敵基地攻撃論や台湾有事や
憲法改正の話はあっても…


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加藤をワシントンに送ったのは
原敬首相
しかしワシントン会議が始まる直前
東京駅で18歳の男に刺され
亡くなった原である

暗殺の背景は諸説あるが闇
ではないのか

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

犯人は国鉄大塚駅の若い駅員だった
原敬は国鉄の路線の全国拡大に熱心だったから
皮肉な話だが…
駅には原首相を批判する上司がいて
その影響を受けたとか
ーー政府の財閥寄りの政策や
立憲政友会の多発する疑獄事件
原首相が普通選挙を時期尚早とする点
などに憤り犯行に及んだのだとも
いや
小学校中退にしては難しい言葉遣いの犯行声明文
胸を一突きで確実に殺すプロの手口
背後に黒幕?
とも
恩赦で出獄後に
右翼との接点があったり
満州に渡って軍の仕事をしたり
とも
でもよく分からない

いずれにせよ
原敬が国際協調路線でも
軍の強硬派や右翼の反感を買っていたのは
間違いない

原と言えば
盛岡藩の家老格の家に生まれ
戊辰戦争で薩長に
「白河以北一山百文」
(奥羽は一山の価値が100文)
と馬鹿にされたことがよほど悔しかったか
俳句の号を「一山」(いつざん)
と名乗ったほどの藩閥嫌い

薩長は武力で幕府を倒して政権打ち立て
藩閥の仲間内で要職のたらい回し
原はそういうのを
ハラに据えかねていたのだろう
薩長の下級武士上がりが爵位
と癪にさわってもいただろう
原は士族ながら「平民」で通し
藩閥ではなく国民から選挙で選ばれて
初の本格的な政党政治の「平民宰相」

司法省法学校(後の東大法学部)を退学になったのも
「賄征伐」(腹が減って寮の台所に侵入して勝手に食べた)
の処分に関し抗議したのを
薩摩出身の責任者から
「賊軍のくせに生意気言うな!」
と言われて
と聞いていたが
どうやらこれは違うらしい。。
(責任者に薩長の者はおらず
 逆に処分を受けた学生にはいた)

放校のあと彷徨するうち
中江兆民の仏学塾で学び
フランスの啓蒙思想に触れたあたりで
公利公益という考え方の方向
決まっていったのか

首相になってからは
教育や産業に力を入れようとした


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