ヒラリー・クリントン、なんとヘンリー・キッシンジャーが外交の師匠だという!よりによって! Of all people!キッシンジャーといえば共和党ニクソン政権の国務長官だった人物。戦争犯罪人の呼び声も高い。この人物のおかげで、東南アジアで、中東で、アフリカで、ラテン・アメリカで、いったい何百万人が殺されただろうか。そして今日に至るまで打ち続く数々の対立と紛争と悲劇の種を蒔いた人物だ。
Posted by 中嶋 寛 on 2016年2月14日
Henry Kissinger, Hillary Clinton’s Tutor in War and Peace
Clinton just can’t quit him. Even as she is trying to outflank Bernie on his left, Hillary Clinton can’t help but stutter the name of Henry Kissinger.
THENATION.COM
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Sanders and Clinton discuss Henry KissingerBernie Sanders ties Hillary Clinton to another former secretary of state: “I am proud to say that Henry Kissinger is not my friend.” http://cnn.it/1TbYxlX #DemDebate
Posted by CNN on 2016年2月11日
サンダース:「(クリントンさんは)本の中でもーーいい本だけどーーそれから前回の討論会でも、ヘンリー・キッシンジャーの助言や指導を求めると言っていますが、これはちょっと驚きですよ。と言いますのも、ヘンリー・キッシンジャーといえば、この国の現代史の中でも最も破壊的な国務長官の1人だったと思うからです(会場から拍手)。私はヘンリー・キッシンジャーは自分の友達でないと言えることを誇りに思いますよ(会場で笑い声)。私はヘンリー・キッシンジャーに助言なんて求めません。そもそもキッシンジャーがカンボジアでしたことであの国は不安定になったのです。シアヌーク殿下がいて、アメリカが空爆をして、不安定になって、ポル・ポトとクメール・ルージュが台頭してきて、罪もない人たちを300万人虐殺したんです。世界の歴史上、最悪の大量虐殺の一つです。ですから、私はヘンリー・キッシンジャーに助言を求めない人間と思ってください」(拍手、歓声)
クリントン:「いや、外交は誰の言うことに耳を傾けるのかと聞かれたものですからね。でも(サンダースさんが)誰なのかは、まだ知りません」
サンダース:「ですからそれはヘンリー・キッシンジャーやおまへんて言ってるんです!*1」(会場から笑い)
クリントン:「それでけっこう。それでけっこう。私はいろんな人の意見を聞いています」
(*1 “It isn’t Henry Kissinger.”というところを “It ain’t (”エイント”と発音)Henry Kissinger.”と言ったサンダース。
これは、けっこう下品な言い方だが、こういう場面で使うとマッチョな感じと共に、強く否定する響きがある。
「キッシンジャーじゃないぜ」)
キッシンジャーと言えば保守的なメディアや学者は高く評価する一方、多くの人が戦争犯罪人とまで言い放つ元国務長官、共和党のニクソン政権に仕えた人物。それが民主党の大統領候補指名を争うクリントンの外交の指南役というのだから、確かに驚く。そこを激しく突いたサンダース。彼がいかにリベラル派を長年貫いてきた人物であるかを再び浮き彫りにした場面だ。
しかしこのキッシンジャー。なぜか日本では大変な人気者で、今年世界はどうなる、などといって、ひところは毎年のように正月番組に出て来てご託宣を垂れ、みんな有り難がって聞いていた。正月とは言え、どこまでお目出度いんだこの国は。しかし、彼がクリントンの外交の師匠というのは、いかにも怖い。外交や戦争に関してよほどうまがあうのだろう。だが彼こそは、絶えざる戦争でアメリカの国益を追う「安全保障国家」という国のあり方の推進者だ。
サンダース陣営の資料にいわく:「キッシンジャーは民主的に選ばれた国の指導者たちに対する秘密のクーデターに直接介入したことで知られています。悪名高い独裁者を支え、安全保障国家の拡大を進め、数々の人権侵害を行なったことで知られています。ニューヨーク大学の歴史学教授グレッグ・グランディンは「The Nation」に次のように書きました:「キッシンジャーの政策がもとでベトナム、カンボジアなどで少なく見積もって300万人、400万人という人々が死んだであろう。そのような関与の多くが大企業や裕福な銀行家との共謀のもと行なわれた」。(*2)
(*2この資料はさらに続けてキッシンジャーの代表的な悪事を10数件、新聞報道の引用という形で列挙している。あとで要約しておこうと思う*3)
外交を重視するサンダース 介入・戦争を好むクリントン
クリントンもキッシンジャーと同じで外交より戦争を好むようだ。オバマと民主党の大統領候補指名争いを演じた4年前は、イランのような国とも交渉するとしたオバマを、弱腰として激しく批判した。そのような国とはあくまで交渉を拒むという立場なのだ。サンダースはオバマと同じで外交を重視。イランとは去年核協議で合意にこぎつけたのだから、そのアプローチで成果があがったと言える。
今回のサンダース対クリントンの討論でもこの二つの異なるアプローチの違いがはっきりする。いわゆるレジーム・チェンジ(外国の体制転覆)に関する応酬のなかでサンダースは、独裁者を追放するだけが能じゃない。問題はそのあとだ、と言った。確かに、リビアのカダフィがいなくなったあとは、権力の空白が生まれ、ISに繋がる勢力が入って来た。政治体制は崩壊し、国は混沌の極み、武器は出回り、アフリカ中部にまで拡散している。
意図せざる結果
実はそのようなことをアメリカは50年、60年と続けているのだ、とサンダース。介入するのはいいが、そのあとに予期せぬ事態が起きる。1953年にはイランのモサデク政権を英米が追い落とした。しかしそのあと独裁的なシャー(皇帝)の体制になった。そしてそのあと今度はイスラム革命。いつも「意図せざる結果」を招いているではないか。自分はこの「意図せざる結果」というものに気をつける。そうして、中東の永久戦争に巻き込まれないようにする。そうサンダースが語ると会場から大きな拍手が起きた。
他国に介入することにこのようにサンダースは慎重だが、クリントンはレジーム・チェンジ的手法がなじむようだ。オバマはリビアへの介入には気が進まなかったが、クリントンはやろうよやろうよと、けしかける側だった。オサマ・ビン・ラディンだって、やっちゃいましょうと推奨したのはクリントンだった。
経験 対 判断力
クリントンが、リビアへの介入にはあなたも賛成したじゃないかとサンダースを責めると、サンダースは、あれは誰もが賛成で、リビアを民主的な方向へ向かわせることを期待してのこと、と反論。クリントンのことを友人と言い、大変尊敬している、外交の経験も認める、しかし判断力も大切、と力説。
ブッシュ政権のとき同じ証拠を突きつけられて、自分はイラク戦争に反対し、その先頭に立った、とサンダース。だがクリントンは賛成。判断力も大切なのだと。確かにそうだ。サンダースの言う通りだ。判断力。対テロ戦争、アフガニスタン空爆、イラク戦争、、アメリカは判断を誤り続けている。たまには正しいことがあってもいいのにと思うくらいだ。そのアメリカにただ付いて行くだけの日本。少しは判断力を養ったらどうか。とにかくアメリカの言うことに従うだけである。これだけ間違いっぱなしのアメリカに。
*3:外交の師と仰げば尊し キッシンジャーの功績の数々
「燃えろバーニー」から:
以下は国務長官時代にキッシンジャーが行なった甚だしい行為の一端(新聞・雑誌報道より):
1.2010年に公開された録音テープによるとキッシンジャーは1973年、ニクソン大統領にこう告げていた。ソビエトのユダヤ人が迫害を逃れるために出国するのを助けるのは「アメリカの外交政策の目的ではない」「ユダヤ人がソビエトでガス室に送られようが、アメリカの関心事ではない。人道上の関心事ではあるかもしれない」ユダヤ系の有力者や団体が抗議。(ニューヨーク・タイムズ)
2.1969年から73年までのカンボジアにおける違法な戦争に貢献。この戦争でカンボジアは荒廃した。大規模な空爆作戦で市民およそ10万人が死亡。大量殺戮を行なったポルポト派の台頭につながった。キッシンジャーはこの空爆がアメリカ国民や議会の知るところとならないよう、軍部とともに記録の改竄に務めた。(ニューヨーク・タイムズ)
3.キッシンジャーはベトナム戦争時、ラオスに対する秘密の空爆を許可した。アメリカ軍はラオスで9年間にわたり58万回を超える空爆作戦を遂行。ラオス側の数字では5万人余りの人々が不発弾などにより死傷している。うち2万人余りは戦後。(ワシントン・ポスト)
4.キッシンジャーはパキスタンの軍事独裁政権を支援し、その1971年の東パキスタン(今のバングラデシュ)に対する残虐な制圧を支援した。控え目に見積もってもおよそ20万人の死者が出たとされる。バングラデシュの公式な推計では300万人である。この時はベンガル人1千万人が難民となってインドに流入し、多くの人が難民キャンプで命を落とした。この時起きたインドとパキスタンの戦争ではホワイトハウス関係者や国務省、国防総省の法律顧問らの警告を無視し、キッシンジャーはアメリカの法律に違反することを知りつつもパキスタンへの秘密の武器供与を認めた。(ニューヨーカー)
5.ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障資料館によると1975年のインドネシアのポルトガル領東チモール侵攻はキッシンジャーの了解のもと、議会への通告なしに行なわれていた。25年に及ぶ占領下、東チモールのおよそ20万人が死亡。キッシンジャーはスハルトが東チモール侵攻を計画していたことを知っていたが、この侵攻が法律上問題なのは、インドネシアの使ったアメリカの軍事装備が、アメリカ議会から自衛のためにのみ使用を認められたものだったからである。
6.何十億ドルというアメリカ企業の投資が危機にさらされる中、キッシンジャーは1973年、チリでCIA主導のクーデターを行なう計画の策定に関与した。このクーデターがもとで、民主的な選挙で選ばれたサルヴァドール・アジェンデ大統領の暗殺が起きた。アジェンデはチリを「民主的な道を経て社会主義に」導くことを誓っていた。彼に代わって政権を手にしたのが悪名高い独裁者、アウグスト・ピノチェトである。ピノチェト政権は少なくとも3,197人を殺害、およそ29,000人を拷問にかけた。ラテン・アメリカを担当する国務相高官はキッシンジャーに対チリ関係の中心に人権を据えるよう進言するが、キッシンジャーはピノチェトに対し、ピノチェト政府は左翼プロパガンダの犠牲者だと告げる。「アメリカでは、あなたがやろうとしていることに対して、私たちは共感を抱いている…あなたはアジェンダ政権を葬ったことで欧米には偉大な貢献をした」(リンク)
7. 1960年代後半、キッシンジャーはNSC国家安全保障会議のスタッフに対する盗聴に関わった。ニクソンにはダニエル・エルズバーグを標的とするよう進言。エルズバーグが「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴露したことで、政府はニューヨークタイムズをスパイ法違反として告訴(訴えは却下)。(ニューヨークタイムズ)
8. 1970年代半ば、キッシンジャーは緊密な関係にあった人種隔離国家・南アフリカに対し、(共産主義勢力)MPLAアンゴラ解放人民運動が政権をとらないよう密かにアンゴラの内戦に介入することを勧める。アメリカはこの内戦に直接介入していた。アンゴラの戦闘部隊を訓練したほか、アメリカの要員が、偵察や補給の作戦にあたり、CIAは100万ドルあまりを傭兵計画に使った。この内戦では30万人を超える人命が奪われている。(リンク)
9. 白人主導の政府を持つアフリカ南部の国々にキッシンジャーとニクソンが傾斜していることは、「タール・ベイビー」の名で呼ばれるNSCの秘密の政策文書にその概要が記されている。アンソニー・サンプソンは著書『Black and Gold』の中でこう書いた:「ニクソン・キッシンジャー路線でプレトリアのアパルトヘイト制度は効果的に容認され、あとは企業と銀行にその自由化が任された」(リンク)。グランディンによれば、そのような政策によって何百万人という命が犠牲になった。(ネイション)
10.イギリスとアメリカが共同で仕組んだクーデターによりイランのシャー(皇帝)が権力の坐に据えられた。キッシンジャーの政策はシャーへの無条件の支持というものであった。国務省と国防総省の反対を押し切り、イランに軍事装備への幅広いアクセスを認め、拷問で知られるシャーの秘密警察に対するCIAによる訓練を認めた。(サロン)
11.1975年、キッシンジャーはイランとイラクの間に勢力均衡を達成したと考え、クルド人への支援をやめた。イラクはそのクルド人を攻撃し、数千人を殺害、生き残ったクルド人の立ち退きを強制して彼らの家にアラブ人を住まわせ、民族浄化を行なった。(サロン)
12.1980年、サダム・フセインがイランに侵攻。戦争が始まり、数十万人の命が失われることになる。レーガンはイラクを支援したが、同時にイランに対する違法な武器取引も行なった(イラン・コントラ事件)。NSCのレイモンド・タンターによると、1980年に行なわれたレーガン大統領候補への外交政策ブリーフィングでキッシンジャーが提言したのは「イランとイラクが戦い続けることがアメリカの利益である」ということだった。キッシンジャーによるとアメリカは「敵意の継続を利用すべき」であった。(サロン)
13.新たに公開された資料によるとキッシンジャーはハバナを空爆し「キューバを木っ端みじんにする」秘密の緊急計画を立てていた。キッシンジャーは、この対応をとらなければアメリカが弱腰に思われると心配していた。それまでは関係改善の水面下の動きも計画していたが、独立して間もないアンゴラを南アフリカや右翼ゲリラから守るためにカストロがキューバ軍を派遣すると、キッシンジャーはアメリカによる空爆の計画を練り始めた。(ニューヨーク・タイムズ)
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