花巻というのは夢の世界のようで
現実の世界に存在している土地のようには思えなかった
その花巻に着く
ちょうど釜石行きの蒸気機関車が出るところだった
その名も銀河鉄道
なんという幸先のよさ
さよぐおでったなっす
花巻駅前の観光案内所で翌日のバスを予約
地図をもらい
ぎんどろ公園を目指して彷徨う
花巻に紫陽花の花咲き乱れ
賢治ゆかりの梨園見逃しえん
ぎんどろ公園
「かつてこの地に花巻農学校ありき」の石碑。
「花巻農学校」と聞くとぐっとくるものがある。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな学校がありました。
「やっぱりあいつは風の又三郎だったな」
『風の又三郎』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html
鼬弊稲荷神社
賢治の生まれた家
お墓も行ったが写真は撮らなかった
賢治は家は浄土真宗だったが日蓮宗に宗旨替えをしている
父親とは宗教で対立した
9月21日は
賢治の命日
鳥谷崎神社、円城寺門、花巻城趾を経て
日の暮れぬうちに
いざイギリス海岸へ
賢治は鳥谷崎神社のお祭りの翌日、急性肺炎でなくなった。37歳だった。
賢治が花巻農学校の学生達を連れてきて化石や岩石のことを教えた「イギリス海岸」も流石に今日は増水で見ることができなかったがここに立てただけで満足。
聞こえるものとては川の流れと鳥のさえずり。
あすはそこに河童が加わるかもしれない
花巻
翌朝はバスで案内してもらった
英国製旧式乗合自動車「山猫号」
高村光太郎の「高村山荘」(花巻郊外)
高村光太郎は
東京駒込林町のアトリエをアメリカ軍の空襲で失い
疎開してきた花巻の宮沢賢治の家も空襲で焼け出され
郊外の村に小屋を建てて
七年間ひとりで暮らしていた
高村光太郎
智恵子
賢治
光太郎は宮沢家の人たちに賢治の作品は蔵や防空壕にしまっておくよう勧めていた。
いま我々が賢治の作品に触れることができるのも光太郎のおかげ。
きょうは「今日のうちに 遠くへ行ってしまう 私の妹よ
みぞれが降って おもては 変に明るいのだ
ー あめゆじゅ とてちて けんじゃ」
の「永訣の朝」(賢治」と
「トパアズいろの香気が立つ」
「命の瀬戸ぎはに」
「花かげにすずしく光る」
「レモン哀歌」(光太郎)が重なったのだった。
あの小屋(中尊寺の金色堂と同じで、小屋「本堂」をすっぽり覆うもう一つの新しい建物に守られている)に住んでいた頃すでに智恵子は亡き人。光太郎は毎日「智恵子〜!」と叫んでいたそうです。
智恵子は福島県出身の画家。統合失調症を患っていました。
レモン哀歌 高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
永訣の朝 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ ありがたう
わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
おまへは わたくしに たのんだのだ
銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……
…ふたきれの みかげせきざいに
みぞれは さびしく たまってゐる
わたくしは そのうへに あぶなくたち
雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
すきとほる つめたい雫に みちた
このつややかな 松のえだから
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう
わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
もう けふ おまへは わかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ
ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ
この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
妹のトシとは歳の差ふたつ。
1922年、歳、肺結核で亡くなる。享年24。
賢治が設立した「羅須人協会」のあった丘に
高村光太郎の揮毫をもとにした「雨にも負けず」の詩碑が立っているが
誤字脱字もあり
「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」に関しては
「日取り」(日雇いのように貧しい時の意)という説もある。
妹の命日などの「日取り」、「独り」の方言読みという説も。
下の畑
宮沢賢治記念館/宮沢賢治童話村
宮沢賢治童話村
宮沢賢治は大地震に縁がある。
1896年の8月に賢治は生まれた。その2ヶ月前に明治三陸地震が起きている。
マグニチュード8.2〜8.5。津波は38メートルを超え、死者は2万人あまり。
1933年、亡くなった年には、昭和三陸地震。
マグニチュード8.1〜8.4。津波は28メートルを超え、死者・行方不明者3,000人あまり。
「猫の事務所」(宮沢賢治)
明日はカッパに会いにゆく
さあ行き当たりばったり邪の道の旅、あすはどこへ行こうか。
柳田國男と民話と河童。
駅近くのトイレ風呂共同ながら綺麗好きの旅館。畳の上で寝る幸せ。
昼間の試飲でふらふらだからと酒は断ったが、これだけは一口飲んでみてと女将がどぶろくをもってきた。
これは甘酒かマッコリか。
旅に酔ひ夢は遠野を駆け巡る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー