きのう4月30日に放送されたNHKスペシャル。
憲法の「平和」がどこから来たか。それは日本の中から、日本人から来たものである、という、インパクトの非常に強い番組であった。新しく出て来た資料や証言。それを元に、戦後の日本の礎を「平和の建設」としたのが、これまで考えられていたより早い時期から、強い意思をもって日本人の間から発案されていたものであったことを描いている。
具体的には昭和天皇、幣原喜重郎や鈴木義男、党派を超えた国会議員ら、あるいは宮沢俊義といった学者である。
昭和天皇がいち早く「平和国家の建設」を打ち出し、幣原首相が引き継ぎGHQマッカーサーとの交渉、国会審議、衆議院に設けられた帝国憲法改正小委員会での党派を超えた熱い議論。そこから憲法に平和の文字を入れよう、平和主義の理念を高らかに謳い、その上で積極的に戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否定を定めようと収斂していくさまは感動的である。日本は天皇から政治家、学者、市民をあげて、自ら積極的に平和を希求したのだ。
これと、鈴木安蔵らの動き、すなわち鈴木安蔵らの「憲法研究会」がまとめていた「憲法草案要綱」(植木枝盛の自由民権思想にも一部影響を受けたもの)がGHQで英語に翻訳され、それがGHQ草案に影響を与えた(ないし叩き台となった)ことを考え合わせれれば、アメリカの押し付け憲法と言われる現行憲法が、なかんずくその戦争放棄の積極的平和主義が日本人の発議であり、決して押し付けではないことがいよいよ明らかになるではないか。番組を見ながらそう思った。そして、大型連休で遊ぶのもいいが、多くの日本人が今こそ心して見るべき番組だった。安倍政権が平和主義、戦争の放棄をかなぐりすてる憲法改正を画策し、まさに今、北朝鮮を巡る情勢で日本がさらに軍事に大きく踏み出そうとしていることを思えば、である。国を破滅に陥れた振り出しへ一気に回帰しかねない日本だ。
そしてこれは私の勝手な妄想だが、この番組が最終的にこのような形をとるまでには、制作陣の内部でせめぎ合いもあったのではないだろうか。100%想像だが。現政権、安倍政権やその背後にいる日本会議など極右勢力の意向を真っ向から明示的な形で批判することはしない。しかし、番組の節々に、暗示的に強烈な政権批判となる部分が盛り込まれているような気がしてならなかった(*)。
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以下、番組の抄録。*部分はのら猫の独白。
番組は昭和21年(1946年)7月の憲法調査委員会の秘密会議の場面の再現で始まる。
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日本国憲法の平和主義がどのようにして生まれ、盛り込まれていったのか、その最終過程の再現だ。それは新しい資料で分かったことだった。
一人の議員、鈴木義男が言う。「戦争をしない、戦力を持たない、では、消極的な印象を与える」と。「まず平和を表明」しようではないか。
GHQ草案、いわゆるマッカーサー草案に「平和」の文字はなかった。平和の理念を謳う「国際平和を誠実に希求し」の部分は、元々の改正案にはなかったのだ。
真っ先に「平和国家の建設」を打ち出したのは昭和天皇その人だった。
1945年9月2日に日本はポツダム宣言を受け入れ降伏文書に署名。その二日後に戦後初の国会。昭和天皇が勅書を読み上げた。
「平和国家を確立し、人類の文化に寄与せんことをこいねがう」
これまでの軍事立国を否定してこれからは平和国家で行きます、という宣言だ。
重要な資料が去年発見されていた。この勅語の極秘の草案である。終戦直後の勅語は何度も書き改められていた。四案があり、第一案では平和国家の文言はなく、国体(天皇を中心とした国のあり方)の護持を謳っていた。第二案でその「国体」が消える。第三案で「平和的な新日本を建設」となったが、そう書き加えたのは戦後初の首相東久邇稔彦である。彼は内閣、宮中と計り、草案を作った。ポツダム宣言を受け入れ、世界に信義を示さんと非軍事化と民主化を打ち出すのだが、最終的に天皇は勅語で「平和国家の確立」と宣言したのである。それは戦後の平和主義の出発点であった。
その勅語の直後、早速反応した憲法学者が宮沢俊義。記事を切り抜いて、講義に使っていた。
「武装解除と平和主義」に書かれている。原子爆弾が発明された今、戦争は無意味だ、武備なき国家を思い描くのだ、と。
文部省も新日本の建設を早くも9月15日に教育の新しい方針とするが、その柱は平和国家の建設であった。天皇が宣言した方針が1ヶ月足らずで教育の現場に届くのである。(*このあたり今再び戦争国家へ向かおうとして戦争を教育現場に復活させるかのごとき現政権への強烈なストレート・パンチではないか。番組制作者のそのような言外の意図を私は忖度してしまうのだ)。
昭和天皇にアメリカ人ジャーナリストが外国人として戦後初のインタビューをしていたが、その時の回想録を遺族が保管していた。その記録は宮内庁にも残っており、天皇は「恒久平和は銃剣を突きつけて確立することはできません」と語っている。(*その部分をあえて紹介するNHKを私はまた忖度してしまうのだ。これは銃剣道を中学で教えることを今年打ち出したした文科省への、きついきついひと突きではないか!と)。
いずれにせよ、それまで天皇は陸海空軍の大元帥でもあり、戦争責任を巡り世界から厳しい目が注がれおり、新しい天皇の姿を打ち出す上でも、平和国家のメッセージは重要であった。
9月27日、天皇はマッカーサーに会い、平和に基づいて新日本を築いていくことを伝える。マッカーサーは憲法改正を促す。これを受け、天皇の側近たちも動き始める。
従来、天皇は憲法改正には消極的だと見られていた。しかし3年前に公開された「昭和天皇実録」を読めば、天皇が「平和」のために早くから積極的な関わりをしていることが分かる。
9月21日に天皇は憲法改正のための調査を依頼していた。依頼した相手は近衛文麿である。そして並行してもう一つの調査。それが10月9日に成立した幣原内閣の松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会だった。
天皇から調査の進み具合を何度も尋ねられていた近衛であるが、戦犯容疑で逮捕令状が出され、出頭当日に服毒自殺。
こうして憲法改正に向けての調査は、幣原内閣のそれに絞られることになった。
(*幣原喜重郎といえば、かつては外務大臣として第1次世界大戦後の軍縮条約の締結にも関わった。軟弱外交として軍部から批判された人だが、その一つ、パリ不戦条約(1928)別名ケロッグ・ブリアン条約は、紛争の解決のために戦争に訴えてはならず、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言する、国家間の紛争は平和的手段によるしか処理や解決の方法はない、というものであった。)
その幣原が首相として戦後、GHQを相手に憲法改正の交渉に当たったのである。
1946年の元旦に天皇の「人間宣言」。天皇は現御神あきつみかみ(現人神あらひとがみ)ではないと自ら宣言。その年の書き初めに学習院初等科6年生だった今上天皇は「平和国家建設」と書いている。GHQが促す憲法の改正。すでに戦争放棄の条文があった。
東京裁判はまだ始まっていないが、昭和天皇には戦争責任を問う声が国際社会にあった。そして幣原首相は何としても天皇を救いたい、皇室を守りたいという気持ちの人であった。
1月24日、幣原はGHQのマッカーサーを訪ねる。3時間、通訳なしの会談。その中身をメモに残した友人がいた(羽室メモ)。
幣原「どうしても天皇制を存続させたい。協力してくれるか?」
マッカーサー「一発の銃声も聞かず一滴の血も流さずに進駐できたのは天皇の力」
幣原は、日本は戦争を放棄し平和国家として歩むことで信用してもらえると語り、二人は強く共鳴し合い、天皇制の存続と戦争の放棄に向かう。
幣原は、「国民が戦争の渦中に引き込まれることのなきよう」戦争放棄を提言したのであった。(*いよいよ戦争に巻き込まれようとする安倍政権はむざむざそこまで逆戻りだ。篠原のこの言葉をあえて引用するのは、意図したかどうかは別としても、安部が言い切った「アメリカとの戦争に日本が巻き込まれることは絶対にない」を思い出さずにはいられない。ワシントンでは「いつでもどこでもどんなに遠くてもあなたの一言で飛んで駆けつける」と媚びた安倍なのだが)。
平和主義で行こう、戦争放棄を盛り込もうと、憲法問題の調査が進む。勅語を受けそのような講義を大学で始めていた宮沢俊義の言葉が調査委員会の記録に残る。「潔く裸になって平和国家としてやっていく」「明治憲法の11条(統帥権)は全面的に削除すべし」。
こうして、日本を滅ぼした軍国主義に代わって平和憲法をという流れだが、その一方で、軍を残置すべしとする、改正に消極的な人たちもいた。松本国務大臣がそうである。赫赫たる碩学。彼に立ち向かうの
は至難のわざ。
しかし2月1日、新聞が改正案をスクープした。君主主義を認める松本案をGHQが「非常に保守的」と批判したと言うのである。GHQ草案が急遽まとめられることとなる。急いだ背景には、極東委員会(アメリカ、ソ連、中国など11カ国)の動きがあった。なかんずく、ソ連とオーストラリアが天皇制に対して厳しかった。
2月3日のマッカーサー・ノートには戦争の放棄を定めるべしとあった。さらに、国権の発動としての戦争の廃止、戦力不保持、交戦権の否定、自衛戦争すら否定。マッカーサーは民生局に一週間で草案を作るよう指示した。
その後、自衛の放棄の部分は削除された。どんな国にも認められるべき当然の権利であり、攻撃を受けたら自分で守る、そんな自衛までも否定するのは非現実的と言う訳である。代わりに加わったのが、武力による威嚇または武力の行使の否定である。(*今まさに日本が北朝鮮に対してアメリカとともにおおっぴらに実行中ーー威嚇ーーないし踏み出そうとしていることーー武力行使ーーではないか!またしてもNHKスペシャル、安倍政権に痛打!)。
2月12日GHQ草案がまとまる。基本的人権を定め、天皇を国の象徴とするもの。その翌日マッカーサーは日本側にこれを伝えた。GHQ案の原則を日本が受け入れれば天皇制に対する連合国の批判も退け、天皇制は存続する。拒否されれば国民投票だとマッカーサーは考えていた。
日本政府はGHQ案を原則受け入れることにする。
戦争の放棄に関してGHQは国連憲章を参考にしていた。
(*国連憲章は1945年6月に調印され、1945年10月24日に発効。その第二条の三項に「すべての加盟国は、国際紛争を平和的手段によって国際的な平和、安全、正義を危うくしないように解決しなければならない。」 とあり、四項に「すべての加盟国は、国際関係において、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するもの、また国際連合の目的と両立 しない他のいかなる方法によるものであっても、武力による威嚇または武力の行使は、慎まなければならない」とある。武力の行使には国連安保理の容認が必要だが、アメリカは面倒とばかり、国連のお墨付けをえぬまま戦争を始めるようになった。国連憲章違反、国際法違反である。ブッシュ政権によるイラク戦争の開戦がしかり。そしてそのアメリカとの軍事一体化にのめり込む安倍・日本)
4月、戦後初の選挙で吉田茂内閣が誕生。衆議院で新憲法の条文の審議が始まる。
7月には帝国憲法改正小委員会。秘密会で14人のメンバーが平和への思いをぶつける。再び番組冒頭の場面だ。その中で、GHQの原案になかった「国際平和を誠実に希求し」と言う文言が入ったことがついに確認できた。50年の封印を解いてこの議論の記録が近年公開されるに至ったのだ。そしてそこでの党派を超えた熱い議論の末、日本人の手によって打ち出されたのが積極的な平和主義だったのである。
(「下」に続く)
コメント
昭和20年8月15日かんかん照りの夏空を見上げこれから日本は変つてゆくのだろうと思いました。
貴ブログを読みながら頭の中で様々な思いが去来しましたなかでもt当時、日本はもう戦争をしない、軍備ももたない、「役人」は「公務員」となり国民の公僕だと。強烈な印象でした。嬉しかつたです。
カナダ1世の義父母のパスポートが私の手元にありますが、外務大臣の名が一方は小村寿太郎、片は幣原喜重郎。 先の戦争で全財産を失くしております。日本で彼らの名前をもうご存じない人が多いのではないでしょうか。
まとまりのないコメントで申し訳ありません。
このブログに出会えたことに感謝しつつ。
森さま
当時の思いを書いてくださり、ありがとうございます。こちらこそ読んでくださったことに感謝します。はるか太平洋を越えて72年前のお気持ちを伝えてくださり、貴重なお言葉を頂き、嬉しいです。
まさに今、その時代に一挙に逆戻りしようとしているかのごとき今の日本です(まさにも、かのごときも、安倍首相の口癖の一つ。まさに私の妻が犯罪者であるかのごとき、云々)。
幣原喜重郎は、不戦条約の条文を読んでから興味を深くしました。ほとんど日本国憲法じゃないか、と。Article I: The Contracting Parties solemnly declare … that they condemn recourse to war for the solution of international controversies, and renounce it as an instrument of national policy in their relations with one another. Article II: The Contracting Parties agree that the settlement of solution of all disputes or conflicts … shall never be sought except by pacific means.何年も前から9条は幣原の発案と言う記事を新聞でも何度か目にするようになっていました。最近ではマッカーサーに自分が伝えたのだよと言う本人の録音テープまで出てきました。今回のNHKのドキュメンタリーは、さらに、議員たちが熱い議論の末、「平和を希求」を盛り込んだという貴重な検証。押し付けではなかった平和憲法という重要な立証。森さんのような思い、国民の思いが「平和」に収斂されていったのだなと思わせるものでした。この議員たちの議論をNHKは役者を使って再現していましたが、これまた、今の空転国会への痛烈な当て付けとなっていました。国会の議論はこうあるべき、実質的、建設的な議論であるべきと。
番組制作者らが安倍政権への批判を仕組んでいるというのは、私の勝手な想像ですが、そう思いたいですし、そう思わせるのも昔ドキュメンタリー作りに裏方として関わったことがあるからで、そのことは続きにでも書きます。
私こそ森さんに出会えたことに感謝しつつ。
小村寿太郎は、学校で日本史を習うと日露戦争の時の交渉で名前は教わります。私は小学校時代、郷里の熊本を離れて宮崎県の南部におりましたから、飫肥(おび)の出身の偉人だと先生がよく言っていたのを覚えています。事あるごとに聞きました。日清戦争の交渉の時は背が低いことを中国の代表から「お国ではみんな背が低いのか」と言われ、「あなたのような体格の優れた者もいるが日本では『大男、総身に知恵が回りかね』と言います」とやり返したというのはあっぱれ。リー・クワンユーがアメリカのテキサスに行った時のことと通じます。大男に囲まれてどんな気分かと聞かれ being a dime among a bunch of nickels などと答えたのだそうです。