https://noraneko-kambei.com/2022/02/07/1328/
原敬は1886年から3年余り公使館書記官として
パリで暮らした。
原が法学校を放校となったあと
中江兆民の仏学塾で学んだことは前回書いたが
その後新聞に寄稿したり
フランス語の翻訳をしたりのあと
外務省入りしたのちの
30歳代初めのフランス滞在である。
政界に入ってのちの50代の初めには
半年もかけて突然の欧米周遊
1908年~1909年
太平洋を渡ってアメリカ
さらに大西洋を渡って欧州
ロシア経由で帰国
40年近く前岩倉使節団が
1年半以上もかけ欧米を巡ったころは
列強の植民地になってなるものかの日本も
いつしか朝鮮半島や中国大陸に触手を伸ばす国に、、
原はそれでも欧米諸国の国力は嫌というほど
見せつけられたことだろう
特に勃興するアメリカ
と戦争するなんて
考えられもしなかっただろう
しかし互いに建艦競争などして
いつしか仮想敵国になっているアメリカ、、
ハワイからグアム、フィリピンと
軍港を整備、軍事要塞を増強してくる
原が総理大臣(1918-1921)
となった日本は
国家予算の半分が軍事
海軍だけで3割になっていた
このまま日米
互いの猜疑心から軍拡は進み
やがては必然的に
軍事衝突?
しかし1921年 アメリカからワシントン会議の呼びかけ――
アメリカと協調したい原にしてみれば
「待ってました!」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
アメリカのヒューズ国務長官が
いきなりの提案
「各国は現在進めている主力艦の建造計画を
全て放棄すべし」
「今後10年は主力艦を建造せぬこと」
「主要艦比率は米・英・日で
5対5対3(10対10対6)」
「進行中の主力艦の建造計画を全て放棄」というが
日本は戦艦「陸奥」がまさにいよいよ完成間近
というタイミング
対するアメリカは戦艦「メリーランド」を
大急ぎで(?)完成させたばっかり
こういうところがいかにもアメリカだ
当時は敵を抑えるには理論上
1.5倍の戦力が必要
と言われていたそうだが
日本が6ならその1.5倍は9
アメリカの10に負ける
7なら10.5で勝てる、、
そういうのをちゃんと計算してのことか
日英同盟も解消させようとしてくるし
6にこだわるのはまさか日本を攻めるつもり?
アメリカはアメリカで
そして他の国にしても日本のことは警戒
第1次大戦で欧米が欧州にかまけているすきに
日本はアジアで勢力拡大、、
この時も
なんでまた海軍大将を軍縮会議に送ってくるかねー
と思ったか
アメリカの提案には猛反発するだろう
きっと強硬な要求を突き付けてくるんだろう
下手すると決裂
と思ったか
加藤大将はなにしろ
「八八艦隊」という海軍増強計画を推し進めた当の本人
ところがこう切り出した加藤友三郎
「日本は米国の提案をうながしたる
高遠の理想に共鳴せざるをえず
ゆえに日本は欣然
右提案を主義上受諾し、
敢然、海軍軍備の大々的削減に着手するの用意あり」
場内にどよめきと拍手が湧いたそうだ
猛反発したのは日本の代表団に随行しいていた
強硬派であった
これじゃ国を守れない!
というわけだ
このとき加藤が残したことばが
「国防は軍人の占有物にあらず」
だった
海軍の大御所東郷平八郎も
海軍大臣が6割でいいのなら
それでよろしい
(共にロシアと日本海海戦を戦った仲)
これにて一件落着
6割を受諾する代わりに
アメリカは太平洋の海軍基地を現状維持
日本は戦艦陸奥の建造も認められることに
「外交手段により戦争を避くることが国防の本義なり」
と加藤。
「この会議が失敗すれば世界は再び戦火の洗礼を受ける」
と原敬は言っていたのだと言う。
ワシントン体制という
国際協調体制ができた
ワシントン会議に臨んだ加藤友三郎(真ん中)
左は当時の駐米大使・幣原喜重郎(後の外相)
加藤友三郎はそのあと
1922年6月に第21代総理大臣となり
シベリアからの撤兵を行うなど国際協調路線を続けた
右翼に殺される?
1年後たしかに亡くなってしまう、、
加藤首相を殺したのは
癌であった
大腸癌だ
大酒飲みだったらしい
アメリカのウイリアム・プラット海軍少将は
加藤を「偉大で立派な紳士」と称え
「日本の国政が彼の手中にあるかぎり
日米に平和友好的に解決できない問題はない」
と思ったと弔辞を寄せている
1921~22のワシントン会議に際しては
平和を働きかける民間の使節として
晩年の渋沢栄一らも送り出されている。
2021年のNHKの大河ドラマ
『青天を衝け』にもその場面があった。
「日本資本主義の父」は、戦争で金儲け、ではなく、
平和あってこその経済、という考えであった。
戦争は割りに合わない
ということ。
渋沢栄一と戦争。平和運動、軍縮活動に力を注いだ渋沢は反戦論者だったのか
サライ https://serai.jp/hobby/1053632
この年1921年
平和の必要を痛切に感じた人が
もう一人いた
昭和天皇、当時の皇太子
裕仁(ひろひと)親王である
10数年まえの原敬ではないが
皇太子はこの年、半年をかけて欧州を歴訪
母君の貞明皇后は反対だったが原首相も説得
「国内保守層の強い反対を押し切って実現させたのが原だった」
原敬を乗せて自動車は駆ける 平民宰相が踏んだ新時代へのアクセル
朝日新聞 2021年11月16日 https://digital.asahi.com/articles/ASPCH4G2NPCCDIFI02S.html
帰国した皇太子を
原は閣僚らと横浜港に迎え
食事を共にする。
皇太子から
「欧州で戦争の惨状を見て
ますます平和を熱望する思いを持った
と聞いた原は涙を流した」
(「原敬」清水唯一朗/中公新書)
「世界平和の切要なるを感じた」(裕仁親王)
(原敬日記 1921.9.3)
旧ブログの関連記事はこちらのタグよりどうぞ:
→ https://noraneko-kambei.blog.ss-blog.jp/2022-02-17