冬なのに月もないのに秋月へ

福岡の友人と西鉄小郡の駅で待ち合わせて昼飯を食いに出かけた。

こうフェイスブックに投稿したら
別の友達から「俺も誘ったつもりだけど」
と抗議が寄せられた(笑)。

おっといけね。忘れてた。熊本にまた来ると言うあいつの誘いは断ってたのだ。
でも、相手は酒豪。とても今の私には太刀打ちできない。
誘いに乗るのは命懸け。。
また今度ということで。。

今日の昼飯はせいぜいワインを一杯。

それにしても立派なお屋敷である。

案内された部屋は洋間。

これだけ美しい館でこれだけ美味しいものをたらふく食わせてくれて
最後にびっくり
料金の良心的なること。

次は友人の車でいざ、秋月へ。
昔は甘木市と言ったが今は朝倉市だ。

秋月城の天守閣は残っていない。

秋月藩は黒田長政の福岡藩の支藩として始まった。
初代藩主は長政の三男の長興というから黒田官兵衛の孫ではないか。
のら猫寛兵衛と不思議な縁で繋がっておるのお(笑)。

それまでここを本拠としていたのが秋月氏だが、16代秋月種実(たねざね)は、
薩摩の島津氏と通じたりして豊後の大友氏と争い
秀吉の九州征伐に反抗したため
日向の財部藩(のちの高鍋藩)に改易となった。

秋月氏が最初に飛ばされたのが日向でも最南端の櫛間(現・宮崎県串間市)。
そのあと同じ日向でも中部の高鍋に移ったのだった。

これまた奇遇である。というのも私は父親の仕事の関係で
小学校時代をこの串間で過ごしているのだ。
串間が高鍋藩の飛地であることは知っていたが
それがどのような経緯かや筑前・秋月との繋がりは、今回初めて知った。

この最果ての地には野生の猿(幸島)や野生の馬(都井の岬)が住んでいる。
平家の落人伝説もあり、都が恋しい恋しいと言って泣いたということにちなむ
「恋が浦」という地名が残っていたりする。
「野生の馬」は、高鍋藩が軍馬を放牧しているうち野性化したものという。

高鍋藩6代藩主・秋月種美(たねみつ/たねみ)の次男・松三郎は羽前・米沢藩に養子に出された。それが藩の財政立て直しで名高い、かの上杉鷹山である。

いやあー、ひとつには、明治時代の不平士族の反乱「秋月の乱」について知りたい、と思って訪れた秋月であったが、意外な展開となってしまった。
そして秋月の乱に関しては収穫ゼロであった。。

高い建物がないというのがいい。


日向高鍋藩6代藩主・秋月種美(たねみつ/たねみ)の妻は
筑前秋月藩4代藩主・黒田長貞の娘 ・春姫であった。
その子・高鍋藩7代目秋月種茂と上杉鷹山は実の兄弟である。

その種茂の子が黒田家の養子となり秋月藩主となる。
8代黒田長舒(ながのぶ)である。

長舒は叔父・上杉鷹山の殖産興業策に学び
秋月で葛粉の生産を奨励して藩の財政を立て直した。

私も葛ねりを食って腹具合を立て直し。

前から来たかったが初めての秋月。すっかり気に入った。

また来よう。

次は桜の頃かモミジの紅葉の頃がいい。
西鉄甘木線や甘木鉄道に乗るのも楽しかろう。

この日は久留米から西鉄大牟田線に乗り、大牟田からJR鹿児島本線へ乗り継いで
上熊本に帰ってきたのだった。

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今日もお読みくださりありがとうございました。m(_ _)m

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